思い出は、余白にできる。
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最近、とある本の中に出てきた「魂の片割れ」の話。
気になってAIに尋ねると、哲学者プラトンが『饗宴(シュンポシオン)』の中で書いた、喜劇作家アリストパネスが語る「愛の起源」の神話らしいと知りました。
私は「知る」という好奇心が強く、AIから毎日ひとつだけ「哲学の問い」について考える時間をつくってみないかと提案されて、毎朝8時に人工知能とおしゃべり。
現在、実践して3週間が過ぎたところです。
愛ってなんだろう。
自由ってなんだろう。
自分で選ぶって、どういうことなんだろう。
普段なら、わざわざ立ち止まって考えないようなことを、あえて考えてみる。
答えが出ることもあれば、
出ないまま終わることもあります。
それをiPhoneのjournalというアプリに日記として残すということを習慣化してみました。
以前の私なら、答えが出ないことが少し気持ち悪かったかもしれません。
白なのか黒なのか。
好きなのか嫌いなのか。
やるのか、やらないのか。
ちゃんと答えを出して、次へ進みたい。
でも最近は、
答えが出ていない場所も、そのまま残しておいていいんじゃないか
と思うようになりました。
今わからないことが、
半年後の自分にはわかるかもしれない。
今日とは違う経験をして、
誰かと話して、
何かを失ったり、
逆に何かを気にも止めてなかった感情に気づき、大切に思うようになったりして。
そのとき突然、
「あぁ、あのとき考えていたことって、こういうことだったのか」
と気づく日が来るかもしれない。
だとしたら人生には、
全部を今すぐ埋めてしまわないほうがいい場所があるのかもしれません。
予定のない時間。
答えの出ていない問い。
決めきらない気持ち。
まだ何者でもない未来。
何もないように見えるけれど、
そこにはこれからの自分が入り込める。
それを私は最近、
「余白」なのかもしれないな
と思っています。
こんにちは、ゆやのです♪
そんなことを考えていたら、ふとCALMA STOREの商品も同じだなと思いました。
CALMA STOREの商品を見ていると、ときどき不思議な感覚になります。
ちゃんと完成しているのに、
どこか、完成していない。
もちろん、商品としては完成しています。
職人さんの手を通り、素材を選び、形を整え、きちんと「ひとつのもの」になって、私たちのところへやってくる。
なのに、まだ少しだけ余白があるんです。
今日は、人生にも、道具にも残されている、そんな「余白」の話をしたいと思います。
完成品なのに、完成していない
新品の道具は、普通なら新品のときがいちばん完成された姿なのかもしれません。
傷もない。
汚れもない。
色もきれい。
けれどCALMA STOREの商品を見ていると、私はあまり「この状態をずっと保っておきたい」とは思わないんです。
むしろ、
ここに傷がついたら、どんなふうになるんだろう。
何年も使ったら、どんな色になるんだろう。
この道具を持って、どこへ行くんだろう。
そんな「これから」のほうを想像します。
たぶん、それが余白なんだと思います。
余白は、「足りない」ということではない
余白というと、何もない場所のように聞こえます。
でも、本当は逆なのかもしれません。
何もないからこそ、そこに何かが入ってこられる。
たとえば、傷。
買ったばかりの道具についた傷は、最初はちょっとショックだったりします。
かくいう私も初めて買ったCALMA STOREのVictorを雨に降られた後の手入れが悪く、青錆をつけてしまった時は
「あぁ……やった💦。」
ってなりました(笑)
でも数年経つと、その傷を見ながら、
「あのキャンプのときについたやつだ」
と思い出したりする。
汚れもそう。
色が変わったところも、
少し歪んだところも、
使い込んで手になじんだところも。
最初からついていたものではありません。
使った人の時間が、少しずつ入り込んでできたものです。
思い出は、余白にできる。
CALMA STOREの商品が私たちのところへやってくるとき、そこにはいつも、少しだけ余白が残されている気がします。
誰が使うのか。
どこへ持っていくのか。
誰とその時間を過ごすのか。
どんな傷がつくのか。
どんな色になっていくのか。
そこまでは、作り手にも決められません。
だから、
完成品であって、完成品ではない。
作り手がつくったところで、物としてはいったん完成する。
でも、そこから先にある物語は、まだ何も書かれていない。
その余白を埋めていくのは、買った人なんだと思います。
「未来のアンティーク」という言葉
CALMA STOREでは、「未来のアンティーク」という言葉を大切にしています。
私はこの言葉が好きです。
アンティークは、古いから価値があるわけではないと思うんです。
誰かが使い、
時間が流れ、
その時間ごと残っているから、
心を惹かれる。
以前もどこかで書いたことがあるかもしれませんが、私自身、アンティークにまつわる忘れられない体験があります。
あるとき、とあるアンティークショップで、「イギリスの図書館で使われていた」というデスクを購入しました。
大人が使うには少し背が低めで、どこか勉強机のような雰囲気もある、チークの立派なデスクでした。
木の質感も美しく、長い時間を過ごしてきたことが伝わってくる机だったのですが、天板の端に、アルファベットの名前が残っていました。
「掘られていた」と言うと、少し聞こえがよすぎるかもしれません。
尖ったペン先で、何度も木を傷つけるようにして書いたような、少し幼稚さの残るものでした。
きれいに刻まれた文字ではありません。
むしろ、小学生が机や消しゴムに、つい名前や落書きを書いてしまうような、そんな素朴な跡でした。
でも、その傷を見たとき、私はなぜか懐かしい気持ちになったんです。
遠いイギリスの図書館で、誰かがその机に向かっていた。
本を読んでいたのかもしれない。
勉強をしていたのかもしれない。
少し退屈して、手元のペンで、机に自分の名前を書いてしまったのかもしれない。
その「誰か」がどんな人だったのか、私にはわかりません。
子どもだったのか。
大人だったのか。
どんな声で話し、
どんな毎日を過ごしていたのか。
もちろん、知ることはできません。
それでも、その小さな傷を見ていると、遠い場所にいた、名前も知らない誰かの存在を、少しだけ想像することができました。
その机は、ただ古い家具だったわけではありません。
誰かが使った時間や、
誰かの手の動きや、
その人のほんの小さな悪戯まで、
一緒に残っていた。
だから私は、そのデスクに惹かれたのだと思います。
アンティークの魅力は、きれいに保存された姿だけにあるのではなく、
そこに残された、誰かの時間の痕跡にある。
傷や汚れや、少し不格好な名前の跡まで含めて、そのものの物語になっている。
そのとき、そんなことを感じました。
だったら、今目の前にある新品の道具も、いつか誰かにとってのアンティークになるかもしれません。
今はまだ、何の思い出もない。
だからこそ、いい。
これから過ごす時間のための場所が、ちゃんと空いているから。
余白を残して、手渡す
物をつくるということは、すべてを完成させて渡すことだと思っていました。
でも、もしかすると、
少しだけ完成させずに渡すことも、ものづくりなのかもしれません。
使う人が入り込める場所。
時間が入り込める場所。
傷や汚れが入り込める場所。
そして、
思い出が入り込める場所。
そんな余白を残したまま、誰かの暮らしへ手渡す。
新品の今日が完成ではなくて、
5年後。
10年後。
ふとその道具を見たときに、
「あのとき、これ持って行ったよね」
なんて誰かと話している。
そのときようやく、少し完成に近づく。
でもきっと、その頃にはまた、その先の余白ができているんでしょうね。
物語は、なかなか完成してくれません。
それくらいが、ちょうどいいのかもしれません。
思い出は、余白にできる。
CALMA STOREの道具には、まだ起きていない時間のための余白があります。
その余白に何が入るのかは、
まだ、誰も知りません。
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