CALMA STOREスタッフ ゆやのです♪今日はシェラカップのお話。 キャンプブームの訪れとともに、世の中に数多のシェラカップが誕生しました。 シェラカップを作る?今更?100均でも買える時代に?売れるのか? 韓国の Brennholzさんのシェラカップを作るお手伝いをすることになり、そう思いました。 ならば今まで誰も作ったことのないようなシェラカップを作ろう。 ロゴ刻印しただけのようなものはCALMASTOREからは作らない。 これが最高傑作というものを作るために、まずは工場を訪ね歩きました。 そうして出会った、燕三条にある工場。 あれだけ似たようなデザインばかりなのだから、似たような型を使いまわして、プレスしているだけなのだとばかり思っていましたが、丁寧に工場を案内していただき説明を聞く中で、実際には1つのシェラカップを作るのにさまざまな工程や技術を駆使していることを学びました。 燕三条で出会ったこちらの工場には、全国でも珍しくプレス加工の機械もへら絞り加工の機械も置いてありました。 でも、心動かされたのはへら絞り加工。 へら絞りとは、ヨーロッパでは中世の頃から行われていたとされる金属精錬技術。 金属の“伸びる”性質を利用した成形法で、“へら”と呼ばれる棒で高速回転させた金属に圧力を加え、目的の形に加工します。雰囲気はまるで、ろくろの上で粘土を成形するようなイメージの加工方法です。 米航空機や人工衛星の部品、H2ロケットの先端部品など、高度な技術がないと作れない商品に適しているのは、へら絞り加工が金属板を厚く加工することができるため、強度が高く耐久性に優れているからです。 プレスにしてもへら絞りにしても、既存の型を使えばだいたいそれなりのシェラカップは作られる。 デメリットは、熟練の職人技がいること。加工技術に長けた職人さんでないと均一な厚みを作り上げるのは難しい。 でも、出会った工場には熟練の技術を持った職人さんがいらっしゃいました。 カルマストアでやりたいのは、誰も作ったことのないようなシェラカップ! へら絞りという伝統技術。高度な技を培った職人さん。 見つけたならやってしまうべきでしょう・・・。 凹凸があることで均一に絞ることがさらに難しくなるけれど、技を惜しみなく注ぐための表現方法としてハンマートーンを採用することにしました。だれもやらない面倒なことをさせているのだから、職人さん泣かせ?です。一つ一つ絞りますから、大量生産のものに比べると納期も数倍。 予約受注生産の形をとるのはそのためです。 ・・・ということで、ハンマートーン加工のデザインは後付け。 そして、これだけたくさんのシェラカップが世にあるのにハンマートーンのシェラがなかった驚き。ないんです。1つも・・・・。 職人さんに尋ねるとすぐに原因が判明。金型代がしびれるほど高価なのが原因でした。 不自然すぎるほど、ロゴの刻印か金属変えるか形や大きさ変えるだけの似たり寄ったりなシェラカップができてるのはこのためでした。 わざわざ金型一から制作して売れなかったら・・・と考え、市場を知っている人間はまず手をださないでしょう....。 セコイ商売なわけです。。。とは、私が思った感想。 研鑽された技術を惜しみなく使ってもらい、唯一無二なシェラカップを生みだすことを考えると決断は一つ。 そうやって誕生したシェラカップに、「Ænd 」と名付けました。 これ以上ないシェラカップ、終わりを告げるEndそしてその先のさらなる研鑽をみたいという願いを込めたAnd ありがたいことにÆnd sierra cupはすでに、私たちの予想を遥かに超える勢いで走り出しています。 ドキドキしながら発表したインスタグラムの投稿には、こんなのを待っていた!見たことがない!興味のなかったシェラカップを初めて予約します。などのお声を沢山頂戴しております。 燕三条の1人の職人の30年の集大成。 敬意を込めて初回ロットには、燕の紋章とTUBAME SANJO NIHONと打刻しました。 Ænd sierra cupは、インスタグラム内でCALMASTOREフォロワーさんとBrennholzフォロワーさんにアンケートを取りながら、できあがった作品です。 先見の明を持っていたと思ってほしいから、、、初回ロットの刻印だけデザインを変えたのはそのためでもあります。 ぜひ、お手に取って日本の伝統技術の美しさを確かめてほしいです。
CALMA STOREスタッフ ゆやのです♪ Samsara blanketのお話の続きです。 日本の伝統技術として、「毛七」がパリコレでも取り上げられるようになった尾州地方。今回はその地方にクローズアップしてみました。 木曽川の運ぶ肥沃な土と美しい水が織物業を発展させた。 日本で布がいつから使われ始めたかは正確には分かっていません。 しかしながら、奈良時代には絹織物の産地として栄えていたことが、今でも残る正倉院の尾張国正税帳に書かれていることから知ることができるそう。 織物業が栄える地域の特徴のひとつは、美しい川のそばであることが多いです。なぜなら、川が上流から栄養素を含んだ土を下流に運んでくれるから・・・。 尾州地方も同様で、一級河川に指定されている木曽川が流れ、豊かな水と肥沃で温暖な濃尾平野が綿花の栽培や蚕業に使う桑畑に適したことで発展していきました。 絹、綿花業を襲った自然災害 明治時代になると、安価なインド綿の輸入が拡大し始めます。 そんな中、尾州地方を襲ったのは、濃尾地震でした。 濃尾地震とは、1891年10月28日に濃尾平野北部で発生したマグニチュード8.0の巨大地震・・・。 日本史上最大の内陸地で起こった直下型地震でした。 これまで綿織物業者は、農家との副業で対抗していましたが、この地震ですべてを奪われてしまいます。 絹、綿織物から毛織物へ 今までその土地で使用していた繊維が使えないという逆境に立ち、それに代用するものとして「毛織物」、特にウールと綿を合わせた「毛七」のルーツともいえる交織織物製造に早々と着手したのは、筧直八、酒井理一郎や、のちに「毛織物業界の父」と呼ばれる尾州毛織物の先駆者、片岡春吉ら実業家たちでした。 干支にも登場する羊ですが、日本の高温多湿という気候に「羊」という家畜はむいておらず、明治期に至るまで羊は飼われていませんでした。 完全に輸入毛に頼っていた日本。「羊毛」は貴重でした。 その後の第一次世界大戦によって、完全に毛織物の輸入がストップしたことで、セルという毛織物の生産や、いち早く繊維のリサイクル技術を発展させ、「尾州地方」と言う名で全国的な生産地として名声を博しました。 伝統文化に欠かせない後継者 自然災害や戦争というターニングポイントによる変化をその時代の職人たちの手で、乗り越えてきた尾州。 しかしながら、カルマストア店主が尾州の生産会社で直面させられたのは、その伝統文化の次の担い手となる「後継者の不足」でした。 それに加え、尾州に限らず、加速する景気の低迷や安価な製品との競合に、日本の伝統的ものづくりの技術が、より厳しい状況を迎えていると感じます。 「商品」の見た目にだけスポットがあてられているようではいけない。 ものづくりのその向こうには必ず、職人がいます。 これまで店主がInstagram内でその思いをお伝えしてきましたが、より細やかに発信すべき課題であると感じ、ブログを始めなければいけないと思った理由の一つでもあります。 Samsara blanketのぬくもりとともに、多くの職人が携わってくださっていることを感じ取っていただきたい思いと、日本の誇れるものづくりが、Samsara blanketとして世に出ていくことで「次の担い手」に関心をもっていただける小さなエッセンスとなりますように。