CALMA STOREスタッフ ゆやのです♪ Samsara blanketのお話の続きです。 日本の伝統技術として、「毛七」がパリコレでも取り上げられるようになった尾州地方。今回はその地方にクローズアップしてみました。 木曽川の運ぶ肥沃な土と美しい水が織物業を発展させた。 日本で布がいつから使われ始めたかは正確には分かっていません。 しかしながら、奈良時代には絹織物の産地として栄えていたことが、今でも残る正倉院の尾張国正税帳に書かれていることから知ることができるそう。 織物業が栄える地域の特徴のひとつは、美しい川のそばであることが多いです。なぜなら、川が上流から栄養素を含んだ土を下流に運んでくれるから・・・。 尾州地方も同様で、一級河川に指定されている木曽川が流れ、豊かな水と肥沃で温暖な濃尾平野が綿花の栽培や蚕業に使う桑畑に適したことで発展していきました。 絹、綿花業を襲った自然災害 明治時代になると、安価なインド綿の輸入が拡大し始めます。 そんな中、尾州地方を襲ったのは、濃尾地震でした。 濃尾地震とは、1891年10月28日に濃尾平野北部で発生したマグニチュード8.0の巨大地震・・・。 日本史上最大の内陸地で起こった直下型地震でした。 これまで綿織物業者は、農家との副業で対抗していましたが、この地震ですべてを奪われてしまいます。 絹、綿織物から毛織物へ 今までその土地で使用していた繊維が使えないという逆境に立ち、それに代用するものとして「毛織物」、特にウールと綿を合わせた「毛七」のルーツともいえる交織織物製造に早々と着手したのは、筧直八、酒井理一郎や、のちに「毛織物業界の父」と呼ばれる尾州毛織物の先駆者、片岡春吉ら実業家たちでした。 干支にも登場する羊ですが、日本の高温多湿という気候に「羊」という家畜はむいておらず、明治期に至るまで羊は飼われていませんでした。 完全に輸入毛に頼っていた日本。「羊毛」は貴重でした。 その後の第一次世界大戦によって、完全に毛織物の輸入がストップしたことで、セルという毛織物の生産や、いち早く繊維のリサイクル技術を発展させ、「尾州地方」と言う名で全国的な生産地として名声を博しました。 伝統文化に欠かせない後継者 自然災害や戦争というターニングポイントによる変化をその時代の職人たちの手で、乗り越えてきた尾州。 しかしながら、カルマストア店主が尾州の生産会社で直面させられたのは、その伝統文化の次の担い手となる「後継者の不足」でした。 それに加え、尾州に限らず、加速する景気の低迷や安価な製品との競合に、日本の伝統的ものづくりの技術が、より厳しい状況を迎えていると感じます。 「商品」の見た目にだけスポットがあてられているようではいけない。 ものづくりのその向こうには必ず、職人がいます。 これまで店主がInstagram内でその思いをお伝えしてきましたが、より細やかに発信すべき課題であると感じ、ブログを始めなければいけないと思った理由の一つでもあります。 Samsara blanketのぬくもりとともに、多くの職人が携わってくださっていることを感じ取っていただきたい思いと、日本の誇れるものづくりが、Samsara blanketとして世に出ていくことで「次の担い手」に関心をもっていただける小さなエッセンスとなりますように。