知る前と知った後-インプットとアウトプットのあいだにあるもの-
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今年、ひとつ自分の中で決めていることがあります。
それは、
「詳しくないジャンルの音楽にも、ちゃんと興味を向けてみる」
ということ。
そんなわけで、最近JAZZを聴いていました。
知らない曲ばかりなので、
特に何かを探すでもなく、Spotifyのおすすめから流れるままに聴いていたら、
ふと、
「あれ?」
と思うメロディが流れてきました。
知らないはずなのに、知っている。
というより、
懐かしい。
なんでだろうと思って曲名を見てみると、
ユセフ・ラティーフ演奏の「Love Theme From Spartacus」という曲でした。
そこから調べてみて、びっくり。
この曲は、Nujabesの「The Final View」でサンプリングされていた曲だったんです。
あぁ、だから知っていたんだ。
遠い記憶で思い出したのは、
大昔付き合っていた、DJをしていた彼氏のこと。
当時の私は、音楽に詳しかったわけでもなく、
彼が聴いたり、使ったりしていた音楽を、
その横でなんとなく聴いていただけでした。
彼が好きだというNujabesがどんな音楽をつくっている人なのか。
その曲が何をサンプリングしているのか。
その音の向こうに、どんな音楽があるのか。
そんなこと、なんにも知らなかった。
ただ、
「好きな人が聴いている音楽」
として耳にしていただけ。
それから、ずいぶん時間が経って。
40代になった私が、
今度は自分からJAZZを聴いている。
そこで偶然、
昔、意味も知らずに聴いていた音の“その先”に出会った。
これが、なんとも言えずエモかった(懐)
若い頃の私は、
何も知らずにその音を聴いていた。
でも、知らなかったからといって、
何も残っていなかったわけじゃなかったんですよね。
音はちゃんと残っていた。
誰といたのか。
どんな時間だったのか。
どんな気持ちだったのか。
細かいことは忘れているのに、
ほんの少しメロディを聴いただけで、
何十年も前の自分と、
今の自分が一瞬でつながった。
過去に触れた、
音や、
香りや、
言葉や、
景色。
そんなものが、
歳を重ねるうちに少しずつ自分の中に残って、
いつの間にか、
自分の一部になっている。
そして何十年か経って、
まったく違う場所から、
「あ、ここにあったんだ」
と再会することがある。
こういう瞬間があるから、
歳をとるのも、案外悪くない(笑)
最近、そんなことを思いました。
こんにちは、ゆやのです♪
そして、この出来事でもうひとつ考えたことがあります。
若い頃の私は、
Nujabesの音楽を「知らないまま」聴いていました。
今の私は、
少し調べて、
つながりを知って、
もう一度聴いている。
同じ音なのに、
受け取れる数がまったく違う。
今日は、
「知る前」と「知ったあと」では、何が変わるんだろう。
そんなところから、
インプットとアウトプットについて、
少し考えてみたいと思います。
知らなくても、心には残る
今回のことで面白いなと思ったのは、
「知らない=何も受け取っていない」
ではなかったことです。
当時の私は、
音楽の背景なんてなにも知りませんでした。
それでも何十年も経ってるのに、
ほんの少しのメロディから、
「知ってる」
と感じた。
人って、
自分が思っている以上に、
いろんなものを受け取って生きているのかもしれません。
本。
音楽。
映画。
誰かとの会話。
旅先で見た景色。
街で見かけたデザイン。
誰かがなにげなく言った言葉。
そのときは、
なんの役に立つのかわからない。
もしかしたら、
覚えていることにすら気づいていない。
でも、それもちゃんと、
自分の内に入っている。浸透してる。
これがインプットの面白さなのかもしれません。
以前、時間と記憶について「その時間、奪われてない?」という記事を書きました。
あのとき考えていた「記憶に残る時間」というものが、
今回、何十年も前の音楽から、また別の形で戻ってきたような気がします。
知ることで、解像度が上がる
一方で、
「知ったあと」だから見えるものもあります。
昔はただ、
「いい曲だな」
「なんか好きだな」
で終わっていたものが、
背景を知ることで、
「だから、この音なんだ」
に変わる。
点だったものが、
線になる。
それまでバラバラだったもの同士に、
つながりが見えてくる。
私はこれを、
知識が増えるというより、世界の解像度が上がる
という感覚に近いと思っています。
知識があるほうが偉い、
という話ではありません。
知らないまま感じたものには、
知らないままだからこその純粋さがある。
でも、
知ったあとには、
もうひとつ別の楽しみ方が増える。
どちらかではなく、
どちらも持っていたい。
ものづくりの材料は、意外なところにある
これは、
ものづくりにも似ている気がします。
何かをつくろうと思ってから、
必要なものだけをインプットする。
もちろん、それも必要です。
でも実際に何かをつくっていると、
昔読んだ本だったり、
誰かとの会話だったり、
旅先で見た景色だったり、
若い頃に聴いていた音楽だったり。
「そんなところから出てくるんだ」
と思うようなものが、
突然つながることがあります。
今回の私の体験みたいに…。
何十年も前に、
意味も知らずに自分の中へ入ってきたものが、
今になって、
考えることや、
書くことの材料になっている(笑)
だとすると、
インプットは、アウトプットするためだけにするものではない
のかもしれません。
いつ使うかわからない。
そもそも使わないかもしれない。
それでも、
面白そうだから見る。
好きだから聴く。
知らないから調べる。
人の話を聞く。
行ったことのない場所へ行く。
そうやって自分の中に入ってきたものが、
時間をかけて混ざっていく。
以前、「壊すのは一瞬、創るのは一生」という記事でも、「創る」ということについて書きました。
あの頃とはまた違う角度から考えてみると、
創るために必要なのは技術や知識だけではなく、
その人の中に積み重なってきたものなのかもしれません。
インプットとアウトプットの間にあるもの
そして、
インプットしたものを
そのまま出すだけなら、
たぶん「自分がつくる意味」は、
それほどないのかもしれません。
インプットとアウトプットの間には、
自分が生きた時間
があります。
何を見てきたか。
誰と出会ったか。
何を好きになったか。
何に傷ついたか。
何を失ったか。
何を大切にしてきたか。
同じものをインプットしても、
出てくるものが人によって違うのは、
その間を通る「人」が違うから。
20代の私が聴いたNujabesと、
40代の私がJAZZからたどり着いたNujabesが、
同じなのに違って感じられたように。
インプットしたものは、
自分の中で時間を過ごす。
そして、
経験や記憶と混ざって、
いつか自分にしかできない形で
アウトプットされる。
それが、
ものづくりなのかもしれません。
だから、
何かをつくりたいなら、
つくることだけに一生懸命になるんじゃなくて、
たくさん見て、
聴いて、
読んで、
話して、
知らないものに興味を持つ。
そして、
すぐに役立てようとしなくてもいい。
20年以上経ってから、
JAZZを聴いていて、
「あれ?この音、知ってる」
なんてこともあるんだから。
そう考えると、
人生で出会ったものに、
無駄なインプットなんて、
案外ひとつもないのかもしれませんね。